はじめに――あなたの“止まっていた時間”が、少しでも動き出すきっかけになれば
「今のままじゃダメな気がする」
「何か変わりたい。でも、どうしたらいいかわからない」
そんな風に心の中で、ずっとモヤモヤしていませんか?
私も、長いあいだそうでした。
夢を追って、何度も挑戦して、失敗して、迷って、また立ち上がって。
その繰り返しの中で、ようやく「今の自分の在り方」にたどり着いた気がしています。
この記事では、以下のようなテーマをお話ししていきます。
- なぜ、私はネットビジネスで起業しようと思ったのか?
- なぜ、“ビジネス”を教えるだけではなく、“自己イメージを変える講座”を作ろうと決めたのか?
- そして、ネットビジネスとの出会いが、私の人生をどう変えたのか?
これまで私が経験してきたこと――
どうしてネットビジネスを始めたのか。
数々のジャンルに挑戦し、試行錯誤の末にたどり着いた“今のスタイル”について。
そして今、どんな夢を抱いているのか。
私のこれまでの歩みが、どこかであなたの“今”と重なる瞬間があったなら。
「私も同じような思い、あったな」と思ってもらえたなら。
それだけで、この記事を書いた意味があると思っています。
これはただの人生の振り返りではなく、
読んでくださったあなたが、“自分自身と向き合う時間”になることを願って
心を込めて綴っていきます。
この記事では、以下のことをお伝えしていきます。
- なぜ、私はネットビジネスで起業しようと思ったのか?
- なぜ、ビジネスを教えるスタイルから、“自己イメージを変える講座”を作ろうと思ったのか?
- そして、ネットビジネスに出会ったことで、私の人生がどのように変化していったのか?
私がこれまでに経験してきた出来事――
どうしてネットビジネスを始めるようになったのか。
数多くのジャンルを試行錯誤しながら、どのように今のスタイルにたどり着いたのか。
そして、これから私が目指している“未来の夢”についても、具体的にお話ししていきます。
この文章を通して、もし少しでも、
「私も似たような思いを感じたことがある」
「同じような迷いや壁を経験している」
そんな方がいてくださったら、嬉しく思います。
私の人生の振り返りを、ただの自分語りにするのではなく――
読んでくださったあなたが、“自分自身と向き合う時間”になれば、これほど幸せなことはありません。
- 【私の原点にあるもの】
- 【環境を変える!――高校生、新たな自分になると決意する】
- 【人生初の大転機!特賞に当選し、初めての海外へ】
- 【2度目の転機――会社を辞めて、オーストラリアへ】
- 【日本に帰国後、待っていたのは“地獄のような職場”だった】
- 【フリーターのような生活と、“自由”が教えてくれたこと】
- 【3度目の転機――心を動かした、たった1本の電話】
- 夢の実現――オーストラリアで“働く”というゴールを超えて】
- 【夢を超えた現実――アメリカ企業で働くという次のステージへ】
- 【オーストラリアでリストラを経験する】
- 【派遣生活ー失業ー求職、そして再び】
- 【せっかく5年かけて取得した永住権を、手放すという決断】
- 【うつが回復してきたので、また職探し──大阪に住んでるのに東京で働く話】
- 【インターネットビジネスとの出会い】
- 【突然の父の死、アカウント削除で収入が途絶える】
- 【再びうつ病を発症】
- 【見えない世界や潜在意識にはまる】
- 【コンテンツビジネスとの出会い】
- 【コンテンツビジネスの中で、ちょっと方向転換】
- 【筋トレと同じように、自己否定癖を止める訓練をする】
- 【量子力学と心理学のつながりに気づく】
- 【なぜ諦めないのか?】
- 【自分の心がモヤモヤしない商品を作りたい】
- 【私がコンテンツビジネスをしている本当の理由は?】
【私の原点にあるもの】
まずは、「私がどんな環境で育ってきたのか?」から、お話しさせてください。
学生時代から社会人になるまで、
そして、どうしてネットビジネスという世界に足を踏み入れたのか。
もともと内気だった性格が、少しずつ外交的になっていき、
前向きで行動力もある自分を確かに感じていた時期もありました。
けれどある時から、気がつけば、
ネガティブ思考にとらわれ、何をするにも自信が持てず、
とうとう“うつ状態”にまで陥ってしまったのです。
そんな私が、再び自分を取り戻していくまでの変化――
それは、簡単な道のりではありませんでした。
でも、たしかに変われたんです。
半世紀以上生きてきた私だからこそ、
今、言葉にできることがあると信じています。
かなり長文になるとは思いますが、
最後まで読んでいただけたら、心から嬉しいです。
では、ここから、私の物語を始めていきます。
【“具合が悪い”と言えなかった、幼い私】
私は東北地方の、ごく普通の家庭に次女として生まれました。
幼少期について語ろうと思ったのですが、あまりにも昔すぎて、正直なところ、ほとんど記憶がありません。
それぐらい、平凡で静かな日常を過ごしていたんだと思います。
そんな中で、ひとつだけ強く覚えている出来事があります。
小学校の低学年の頃、授業中に気分が悪くなり、吐きそうになったことがありました。
でも、私はそのことを先生に言えなかった。手を上げることができず、必死で吐き気を飲み込みました。
それが、私という子どもの一端をよく表していると思います。
いじめを受けていたわけでも、不登校になったわけでもなく、勉強が得意だったわけでもない。
目立つこともなく、かといって特別に困ったこともない――本当に“どこにでもいるような”子どもでした。
でも、今思えば、自分の気持ちを伝えることができなかったあの頃の私は、
すでに「自分の感情を押し殺すクセ」が芽生えていたのかもしれません。
【中学3年間、ずっと補欠――“自分は劣っている”と思い込んだ始まり】
中学生になっても、特別な思い出がたくさんあるわけではありません。
でも、今でも鮮明に覚えているのは「部活での出来事」です。
私は中学の3年間、陸上部に所属していました。
ただ、どれだけ頑張って練習しても、私は一度も大会に出場することがありませんでした。
そう、3年間ずっと“補欠”だったんです。
得意な種目があったわけでもなく、自信もなかったけれど、
中学3年生の最後くらいは、記念に何か出させてくれるかも――そんな淡い期待がありました。
でも、現実は違いました。
顧問の先生は、最後の大会でも「結果を残せそうな選手」を優先的に選びました。
“中3の最後だから”という情けの出場ではなく、あくまでも「勝てるメンバー」で構成されたのです。
私は、その時の判断を責める気持ちはありません。
でも、その瞬間、私の中に「やっぱり私は人より劣ってる」という思いが深く刻まれました。
「しょぼい自分」
「レギュラーにもなれない自分」
そう思うようになると、周囲も私をそう見ているんじゃないかという被害妄想のような感覚すら持つようになりました。
【奇跡のリレー、そして“決意が結果を変える”という実感】
そんな私にも、一度だけ光が差し込むような出来事がありました。
ある日、学校でクラス対抗のリレー大会があり、
私のクラスには陸上部の女子が私しかいなかったため、自然とトップバッターを任されました。
他のクラスのトップバッターも、陸上部の生徒ばかり。
周囲は誰も、私に期待していなかったと思います。
「どうせ、補欠だったあの子でしょ?」という空気さえ、感じた気がしました。
でも、その時、私は心の中で強く思いました。
「絶対に1位で戻ってくる」
悔しかった気持ち、ずっと補欠だった自分を見返したい気持ち――
そのすべてが原動力になり、私は全力で走りました。
そして、結果は…本当に1位でバトンを繋ぐことができたのです。
クラスの仲間たちは驚きながらも喜んでくれました。
他のクラスの陸上部員たちも、まさか3年間ずっと補欠だった私が、1位で戻ってくるとは思っていなかったようでした。
このとき、私は気づきました。
「決意って、こんなにも力になるんだ」
「自分で“できる”と思って動くと、結果も変わってくるんだ」
うっすらとではありますが、そんな感覚を初めて味わった瞬間でした。
【環境を変える!――高校生、新たな自分になると決意する】
高校進学を控えた私は、「環境を変えたい」という強い想いを持っていました。
だから、あえて自宅から遠い高校を選びました。
それは、小・中学校時代の自分を知っている人が少ない場所で、
“新しい自分”として人生をリスタートしたかったからです。
その選択は、結果的に正解でした。
新しい環境では、明るい性格の友人たちと出会え、
これまでにないような楽しい高校生活を送ることができました。
部活動も、過去の苦い思い出が蘇りそうな運動部には入らず、文化部を選びました。
「自分を否定せず、楽しく過ごせる場所を選びたい」――そんな想いがあったからです。
“いまいちな人生”から、“少しだけ青春を謳歌している私”になりたい。
そう強くイメージしながら、毎日を過ごしていたら、実際に高校生活はすごく楽しいものになりました。
【人生初の大転機!特賞に当選し、初めての海外へ】
そして大学1年生、19歳の冬。
私の人生にとって、初めての大きな転機が訪れました。
年末、近所の大きな商店街で買い物をした私は、15枚ほどの抽選券をもらい、何気なく抽選会場へ。
よくある「ガラガラ」と回す抽選機――そこから、なんと「特賞」の玉が出たんです!
信じられませんでした。
当たったのは、ベルギー・アテネ・パリを巡るヨーロッパ旅行。
それも、見知らぬ30名ほどの当選者と、商店街のリーダーと添乗員が引率する、団体ツアーでした。
当時の私は「海外なんて夢のまた夢」と思っていました。
だからこそ、この特賞はまさに奇跡のような出来事だったのです。
参加者の中で私は最年少の19歳。
最年長はなんと69歳。
世代も生きてきた背景もまったく異なる人たちとの旅は、驚きと刺激の連続でした。
それまでの私の世界は“日本の中だけ”だったのに、この旅行で世界が一気に広がった気がしました。
この経験が、後に私の人生観を大きく変えていく原点になっていくとは――
そのときはまだ、想像もしていませんでした。
【2度目の転機――会社を辞めて、オーストラリアへ】
19歳で初めて海外を体験してから、私の中で「海外」はもう遠い存在ではなくなっていました。
「お金さえあれば、また行ける」
そう思えるようになったのです。
当時は今のような円安ではなかったこともあり、今よりもずっと安く海外へ行くことができました。
とはいえ、それまではあくまでも「旅行」として訪れるだけだった海外。
そんな私が、ついに“長期で滞在する”という選択をすることになります。
きっかけは、会社の同僚からの何気ない一言でした。
「11月の連休にオーストラリア行かない?」
「行きたい!!」とすぐに答えた私。
最初はただの旅行のつもりでした。
でも、同僚は言いました。
「オーストラリアに友達がいるから、ワーキングホリデービザで行くことにしたんだ。会社も辞めるよ」
「え、なにそれ…!? ワーキングホリデービザって何…?」
そうして私は、一気にパニックになり、調べ始めました。
そしてわかったのは、2つの選択肢。
- 同僚と一緒に旅行に行き、私は短期で帰国する
- 私も会社を辞め、ワーキングホリデービザを取得して、オーストラリアに長期滞在する
私はその頃、短大卒業後に一度転職も経験しており、ちょうど23歳。
「会社を辞めること」に対する抵抗は、もうあまりありませんでした。
そして何よりも、19歳のときの旅行をきっかけに、
「海外に行く」ことに対しての“心理的ハードル”が下がっていたのも大きかったと思います。
ワーキングホリデービザの年齢制限が25歳だったため、
「行くなら今しかない」
「このチャンスを逃したら、もう踏み出せないかもしれない」
そう感じた私は、思い切って決断しました。
ただ、いきなり1年の滞在に踏み切る勇気はなく、
とりあえずビザだけ取得して、まずは“2ヶ月間だけ”行ってみることに。
「もし合わなかったら帰ってくればいい」
そう自分に言い聞かせて、長期滞在のハードルを下げて挑戦することにしたのです。
【日本に帰国後、待っていたのは“地獄のような職場”だった】
楽しかったオーストラリアでの生活から帰国した私は、
日本の生活にどうにも馴染めないまま、なんとか就職することにしました。
けれど、その職場はまさに“THE・ブラック企業”。
面接の段階では見えなかった、現場の異様な空気感。
入社してすぐに、「ここはおかしい」と感じざるを得ませんでした。
新入社員の多くは地方出身者で、すぐに住める場所がないため、
会社が用意した1ルームマンションの“社員寮”に強制的に入らざるを得ない仕組みになっていました。
つまり、「辞めたい」と思ってもすぐには辞められない。
引越し資金もなく、逃げ場がない状況が“意図的に”作られていたのです。
実際、社員寮に入らなかった唯一の新入社員は、あっという間に辞めていきました。
問題はそれだけではありませんでした。
セクハラ、パワハラは日常茶飯事。
怒鳴り声が飛び交う職場。
私は事務職として採用されたはずでしたが、
実際に任されたのは、営業職の男性社員と同じ仕事。
しかも、給料は事務職のままという不公平さ。
14日間連続勤務も当たり前で、休みは前日の夜9時過ぎに突然、
「明日は休んでいい」と言われるまで取れない。
有給休暇は、親族の葬式でもない限り使わせてもらえず、
実際に取得した人を見た記憶がありません。
極めつけは――
一度も出社したことのない“社長の愛人”が、
私たちの倍以上の給料をもらっていたこと。
営業電話の対応を強いられた際には、
固定電話の受話器をガムテープで自分の手に巻かれ、逃げられないようにされたこともありました。
今なら「ありえない」と笑えるかもしれません。
けれど、当時の私は笑う余裕なんて一切なくて、
毎日が地獄のように感じていました。
心も体も、どんどんすり減っていくのが自分でもわかる。
「これ以上ここにいたら、自分が壊れてしまう」と、本気で思っていました。
【フリーターのような生活と、“自由”が教えてくれたこと】
その後、私は正社員という選択肢に対して、強い抵抗感を抱くようになりました。
「私は社会不適合者なのかもしれない」
そんな思いが、心のどこかにずっとありました。
だから、バイトや派遣といった働き方を選ぶようになり、
半年~3年ほど同じ職場で働いては、区切りがつくと――
短ければ1週間、長ければ数ヶ月の海外放浪へ出かける。
そんな、“フリーターと旅人”のような暮らしを繰り返していました。
将来のことなんて、深く考えていなかった。
ただ、今の場所にい続けることがどうしてもできなかったのです。
この頃には、すでに「正社員で働くのはもう無理だ」と、どこかで諦めていました。
転職回数の多さから、正社員の求人に応募してもなかなか通らず、
だんだんと気力も失われていったのを覚えています。
その代わりに得たものもあります。
メキシコへの語学留学、イスラエルでのボランティア活動――
普通の就職ルートでは得られない、貴重な経験ができたことはたしかです。
そして何より、旅先で気づいたことがありました。
「日本って、思っていたよりもずっと恵まれた国なんだ」
長年、「日本が嫌い」「窮屈」と思っていた私。
でも、外に出て初めてわかった日本の良さ、ありがたさ。
この気づきは、人生の価値観を変えるひとつの大きなきっかけになりました。
ある日、派遣社員として勤務していた会社で――
それまでの私にとっては「珍しく長く続いていた」職場での出来事です。
私はその会社でグループ秘書をしており、電話応対も担当していました。
その日、かかってきたのは営業の電話。
よくある“自己啓発”や“夢を叶える”系の企業からの案内でした。
ちょうど社員たちは全員外出中で、私以外、誰も社内にはいませんでした。
「誰にも繋げません」と伝えて終わるつもりでした。
でも、相手の営業の方は諦めず、なんと私に直接語りかけてきたのです。
「夢、ありますか?」
――不意を突かれたその言葉に、私は一瞬、言葉を失いました。
「え、夢……ですか? あまり考えたことないですけど……」
「今の状況とか、条件とか全部取っ払って。
もし何でもできるとしたら、やってみたいことってありますか?」
しばらく沈黙してから、私はぽつりと答えました。
「うーん……海外で働いてみたいかなあ。
できれば日本食レストランとかじゃなくて、海外の会社のオフィスで働く感じ。
でも、無理だと思います……」
「なんで無理って思うんですか?」
「お金もないし、英語も中途半端だし……いろいろと現実的じゃないので」
そう答えた私に、営業の方は、力強くこう返しました。
「でも、“やってみたい”んですよね?
だったら、できますよ。
諦める必要なんてない。
無理だと思えば無理だけど、“やる”って決めれば、道は開けます」
その言葉たちは、まるで雷のように私の心に突き刺さりました。
ただの営業トークかもしれない。
けれどその20分ほどの会話は、私の中の「諦めグセ」をぐらっと揺さぶったのです。
そして気づいたら、電話を切ったあともその言葉が何度も頭の中を巡っていました。
「諦めなければ、何かが変わるかもしれない」
「やっぱり、私は……もう一度、海外に行きたい」
その想いが、胸の奥でどんどん膨らんでいきました。
私はもともと、素直で影響を受けやすい性格だったと思います。
でも、この時ばかりは「感化された」というよりも、
眠っていた本当の自分の願いに気づかされたような感覚でした。
「やっぱり、夢を諦めたくない」
その想いに突き動かされるように、私はすぐに行動を始めました。
まずは資金づくり。
通常の勤務が終わったあとも、夜や週末にアルバイトを入れ、少しずつお金を貯め始めました。
次第に「もう一度、オーストラリアへ行こう!」という決意が強くなっていきました。
この時は、まだ「海外で働く」なんて現実味がなかったけれど――
それでも、「まずは行くことが先だ」と信じていました。
「行かなきゃ、始まらない」
そんな直感だけを頼りに、私は再び夢へと動き出したのです。
【3度目の転機――心を動かした、たった1本の電話】
ある日、派遣社員として勤務していた会社で――
それまでの私にとっては「珍しく長く続いていた」職場での出来事です。
私はその会社でグループ秘書をしており、電話応対も担当していました。
その日、かかってきたのは営業の電話。
よくある“自己啓発”や“夢を叶える”系の企業からの案内でした。
ちょうど社員たちは全員外出中で、私以外、誰も社内にはいませんでした。
「誰にも繋げません」と伝えて終わるつもりでした。
でも、相手の営業の方は諦めず、なんと私に直接語りかけてきたのです。
「夢、ありますか?」
――不意を突かれたその言葉に、私は一瞬、言葉を失いました。
「え、夢……ですか? あまり考えたことないですけど……」
「今の状況とか、条件とか全部取っ払って。
もし何でもできるとしたら、やってみたいことってありますか?」
しばらく沈黙してから、私はぽつりと答えました。
「うーん……海外で働いてみたいかなあ。
できれば日本食レストランとかじゃなくて、海外の会社のオフィスで働く感じ。
でも、無理だと思います……」
「なんで無理って思うんですか?」
「お金もないし、英語も中途半端だし……いろいろと現実的じゃないので」
そう答えた私に、営業の方は、力強くこう返しました。
「でも、“やってみたい”んですよね?
だったら、できますよ。
諦める必要なんてない。
無理だと思えば無理だけど、“やる”って決めれば、道は開けます」
その言葉たちは、まるで雷のように私の心に突き刺さりました。
ただの営業トークかもしれない。
けれどその20分ほどの会話は、私の中の「諦めグセ」をぐらっと揺さぶったのです。
そして気づいたら、電話を切ったあともその言葉が何度も頭の中を巡っていました。
「諦めなければ、何かが変わるかもしれない」
「やっぱり、私は……もう一度、海外に行きたい」
その想いが、胸の奥でどんどん膨らんでいきました。
私はもともと、素直で影響を受けやすい性格だったと思います。
でも、この時ばかりは「感化された」というよりも、
眠っていた本当の自分の願いに気づかされたような感覚でした。
「やっぱり、夢を諦めたくない」
その想いに突き動かされるように、私はすぐに行動を始めました。
まずは資金づくり。
通常の勤務が終わったあとも、夜や週末にアルバイトを入れ、少しずつお金を貯め始めました。
次第に「もう一度、オーストラリアへ行こう!」という決意が強くなっていきました。
この時は、まだ「海外で働く」なんて現実味がなかったけれど――
それでも、「まずは行くことが先だ」と信じていました。
「行かなきゃ、始まらない」
そんな直感だけを頼りに、私は再び夢へと動き出したのです。
夢の実現――オーストラリアで“働く”というゴールを超えて】
【夢実現:オーストラリアで働くという夢が叶った!】
「引き寄せの法則」ではよく、
“ルートは考えずに願いを放つことが大事”と言われています。
正直に言うと――私は、この考え方を“実体験”として信じられるようになりました。
実際、オーストラリアで働くという夢を叶えたとき、
その道のりを最初から明確に描いていたわけではありません。
でも、あとから振り返ると、私の行動は確実に“夢に向かって動いていた”とわかります。
やったことを、簡潔に振り返ってみます。
- 夢を口にする
- 毎日、夢を思い描く
- やると“決断”する
- お金を貯めるために行動開始
- 会社を辞める
- アパートを解約する
- 観光ビザでオーストラリアに渡航し、現地のエージェントに相談
- 滞在を延ばすため語学学校へ入学→学生ビザへ切り替え
アルバイトもしながら学生生活を送る - 周囲の留学生が“永住権を目指している”と知り、自分も目指すことを決意
- 永住権には大学卒業が必要だったため、専門学校卒業後に大学へ進学
- 途中で永住権の制度が変更→このまま卒業しても申請不可という壁にぶつかる
- 中国人の友達が「学部を変えればまだ可能性はある」と助言&エージェント紹介
- 希望とは違う内容だったが、新しい学部で学び、以前の単位も活かして卒業を目指す
- またしても制度変更→このままでは永住権申請すらできないという絶望感
- “卒業だけはしよう”と決め、でも内心はまだ諦めきれていなかった
- 単位を少しずつ取り、卒業時期を1学期延ばした結果――
卒業式の日に永住権制度が再び変更され、申請が可能に!
オーストラリアの移民制度はころころ変わります。
それゆえ、毎回変更のたびに多くの留学生が夢を諦め、母国へ帰っていきました。
でも私は、どうしても“オーストラリアで働く”夢を諦めきれなかった。
だからこそ、卒業を少し先に延ばしたことが結果的に功を奏し、
永住権申請のチャンスを掴むことができたのです。
卒業後半年以内というタイムリミットの中、
書類の準備や英語のスコア提出を何とか間に合わせ、
無事に永住権を取得することができました。
【夢を超えた現実――アメリカ企業で働くという次のステージへ】
“オーストラリアで、ちゃんとした企業で働きたい”
そんな漠然とした夢は、気づけばその先のステージに進んでいました。
私は、オーストラリアにあるアメリカの企業に就職し、
その中でとても貴重な経験を積むことができたのです。
思い出すのは、日本のブラック企業での過酷な日々。
あの時の働き方と比べると、まるで別世界のようでした。
「こんなにも快適に働ける環境が、世の中にはあるんだ……」
心からそう思えるような毎日。
尊重されること、自分の意見を言えること、
働くことが“苦役”ではなく、“価値を生み出す喜び”になった瞬間でした。
この章は、まさに「夢が現実になるまでのリアルな軌跡」。
でも本当の意味での変化は、
夢が叶った“あと”に、じわじわと心に広がっていった気がします。
【オーストラリアでリストラを経験する】
夢だったオーストラリアでの就職も、ずっと続くわけではありませんでした。
その知らせは、ある日突然届きました。
配属されていた部署が、まるごとインドに移転する――
そのため、100人以上いた部署の全員が“リストラ対象”となったのです。
私自身はその会社に勤めてまだ1年ほどでした。
長年働いてきた人に比べれば、ショックは少なかったかもしれません。
それでも、やはり心がざわつきました。
「せっかくここまで来たのに、また振り出しに戻るのか…」
そんな思いが、ふと頭をよぎったのを覚えています。
退職は、一斉に行われる形で進みました。
とはいえ、役職や年収によって順番に整理され、
給料の高いポジションの人から先に仕事を手放していく流れでした。
同じ日に職場を去っていく仲間たち――
それぞれの進路はバラバラで、海外に移住する人もいれば、
現地で転職活動を始める人もいました。
私も当然、就職活動を始めました。
でも、心のどこかでこう思っていました。
「今、また就職してしまったら……
しばらく日本には帰れなくなるかもしれない」
そう考えた私は、一度オーストラリアの生活に“区切り”をつけることを決めました。
「数ヶ月だけ、日本に帰ろう」――それがその時の決断でした。
オーストラリアの家賃はとても高く、無職で住み続けるのは現実的ではありません。
「また戻ってくるから」と自分に言い聞かせて、アパートは一旦解約。
家具や荷物の多くは、現地の友人に預かってもらいました。
いつか、必ず戻ってくるつもりだったから。
夢を叶えた場所を、いったん手放すという決断。
それは決して簡単ではなかったけれど、
「ここで無理に踏ん張るよりも、心を整えた方がいい」
という小さな直感が、私の背中を押していた気がします。
【派遣生活ー失業ー求職、そして再び】
オーストラリアから帰国して、最初の1ヶ月ほどは、
現地で仲良くなった友人たちと日本を旅行していました。
でもその後、ふと「もう一度、日本で働いてみようかな」と思い始めます。
実家のある地方では、通える範囲に仕事がほとんどなく、
私は都会へ出て、仕事探しを始めました。
「せっかく海外で働いた経験もあるし、正社員にチャレンジしてみよう」
そう意気込んで応募を始めたものの――全然受からない。
オーストラリアでの就活では年齢なんて聞かれたことがなかったのに、
日本ではどこに行っても「年齢の壁」を感じる。
まるで、自分の存在を否定されているような気がして、落ち込む日々が続きました。
やがて貯金も底をつき、再び派遣社員として働くことに。
でも、派遣の世界も決して安定しているわけではありません。
契約は3ヶ月更新。
「いつ切られるか分からない」という不安と背中合わせでの毎日でした。
それでも、仕事が決まった時はやっぱり嬉しくて、
「これを2年くらいやって、またオーストラリアに戻れたらいいな」
そんな淡い希望を抱きながら、働き始めました。
でも――現実は、そんなに甘くなかった。
1年ほど経った頃、再び「派遣切り」に遭いました。
私だけでなく、他の派遣社員も次々に解雇されていきました。
正社員ですら、部署を異動させられるような状況だったのです。
仕方ない。
わかっていたこと。
でも、心は静かに、すり減っていきました。
派遣の給料では、家賃と生活費を払ったら、
自由に使えるお金なんてほとんど残らない。
休みの日も、お金が気になって外出もできない。
「私、何のために生きてるんだろう」
そんな思いが、何度も何度も頭をよぎりました。
「どうして日本に帰ってきてしまったんだろう」
そんな後悔も、何度したか分かりません。
でも、過去は変えられない。そう思って、少しずつ気持ちを切り替えようとしていました。
しかし――状況は、さらに悪化していきました。
リーマンショックの影響や、年齢が40代を超えたこともあり、
派遣の事務職ですら、なかなか見つからなくなってきたのです。
ようやく見つけた次の派遣先は、
まさかの“ブラック企業”さながらの日本企業でした。
そこで、人生で初めて「職場でのいじめ」を経験することになります。
子どもの頃も、学生時代も、いじめとは無縁だった私。
まさか、40代を過ぎてから、こんな形で心を削られるとは思いもしませんでした。
ただでさえ、失業を繰り返して心が弱っていた中でのこの仕打ち。
心が、完全に崩れていきました。
「耐えなきゃ」「また辞めたら、自分がダメ人間になる気がする」
そんな思いにとらわれ、契約の更新を断れず、我慢し続けてしまいました。
そして――限界が来ました。
眩暈。耳鳴り。
ある朝、左耳がまったく聞こえなくなりました。
病院で告げられたのは、「メニエール病」という診断。
ストレスが引き金になるこの病気。
身体はもう、私に「休んで」と叫んでいたのです。
仕事は続けられず、退職。
その後も体調はなかなか戻らず、失業保険を受けながら、病院に通う日々。
思考もどんどんネガティブに傾いていき、心の中が真っ暗になっていきました。
ベッドから起きられない日が増え、
「何もできない」「誰の役にも立てない」と思い込むようになりました。
これが、鬱状態の始まりでした。
手に負えないと感じた私は、しばらくの間、実家に帰ることを決断します。
30年以上ぶりの“帰郷”でした。
治療に専念するための帰省――
けれど、この時は「逃げるように戻った」と感じていた自分も、どこかにいました。
でも、今思えば、それは正しい選択だったと思っています。
【せっかく5年かけて取得した永住権を、手放すという決断】
ちょうどこの頃――
かつて、命がけで掴んだオーストラリアの永住権の有効期限が、切れそうになっていました。
「永住権」とは言っても、実際には5年ごとに更新が必要な制度。
しかも、その5年の間に、少なくとも2年間はオーストラリアに滞在していなければならない、という条件付きでした。
私は、永住権を取ってから約1年でリストラを受け、日本に帰国。
それ以来、心身ともに不調で、日本を離れられるような状態ではありませんでした。
「戻らなきゃ」「でも、戻れない」
その葛藤は、ずっと心の中にあり続けました。
5年という時間をかけて、必死に手にした永住権。
大学にも通い、学びたいこととは違う分野に進む決断もして、
何度も制度変更に泣かされながら、最後の最後でようやく手に入れたもの。
それを、自分の手で手放す――
その決断は、想像以上に苦しいものでした。
泣く泣く、諦めるしかありませんでした。
日本に帰国してからというもの、
「オーストラリアに戻るべきか、戻らないべきか」という問いは、
毎日頭の中をぐるぐると回り続けていました。
正解なんて、どこにもなかった。
でも、“今の自分”では到底、戻ることなんてできなかった。
「これで、ようやく悩みから解放されるかもしれない」
諦めたとき、一瞬そう思いました。
でも、現実は違いました。
あれだけ苦労して掴んだ夢を、自分の手で“捨てた”。
そのことが、じわじわと私を苦しめるようになったのです。
「あんなに頑張ったのに、私は自分の努力を無駄にしてしまった」
「また途中で投げ出した」
「やっぱり私はダメな人間なんだ」――
自分を責める声が、頭の中で響き続けました。
でも、この時の私はまだ、
“自分を責めることが、どれほど自分を傷つけているか”に気づいていなかったのです。
【うつが回復してきたので、また職探し──大阪に住んでるのに東京で働く話】
当時は大阪にアパートを借りていましたが、
東京に住んでいたときの住所で登録していた派遣会社から、ある日突然連絡がきました。
派遣とはいえ、最初にエントリーしても書類選考で落ちるのがほとんど。
面談までたどり着けることなんて、もうほぼなくなっていた頃です。
だから、「え? 東京に住んでないけど……」と思いつつも、
せっかくのチャンスだから、まあダメ元でエントリーしてみよう、と。
面談まで行けたらラッキーくらいの気持ちで応募したら――
なんと、面談という名の「面接」まで進んでしまいました。
しかも、まあまあ有名な外資系企業。
ちょっと職場も見てみたいという興味もあって、
「面談という名の面接」に行くことに。
その会社は、少し駅から離れた郊外にあって、
さらに上司がフランス人で日本語が話せないという事情もあり、
応募者が少なかったそうです。
だから、若くはない私にまで声がかかったというわけ。
そして――奇跡的に、この派遣の仕事をいただくことができたのです。
「来週から来てくださいね」と。
え、ちょっと待って。働くまで、あと5日!?
……プチパニックです。
だって、私のアパートは大阪なんですよ。どうするの? 引っ越し?
そんな時間ないし!
でも、どうせ派遣。しかも外資系。
正社員がなかなか決まらないからこその募集。
私は思いました。
――正社員が決まったら、突然解雇されるパターンじゃないの……?
そんな予感がよぎって、大阪のアパートの解約は危険だと察知。
なので、大阪のアパートはそのままにして、
東京で一時的に住める場所を探すことに。
なんとか、押し入れくらいの広さのシェアハウスを見つけました。
最初は年齢制限があって入れないと言われましたが、
必死に説得して、なんとか入居許可をもらえました。
まさか40歳を過ぎて、押し入れの下のスペースくらいしかない、
人間の住む場所とは思えないところに暮らすことになるなんて……。
人生ってほんと、何があるかわかりません。
流石に1ヶ月ほどで限界が来て、
もう少し広いシェアハウスに引っ越しました。
その外資系の会社では、意外と楽しく仕事をさせてもらっていたのですが――
1年も経たないうちに、その日は突然やってきました。
突然の解雇です。(やっぱり……)
しかも、契約更新のタイミングではなく、更新よりも3週間も早く、
「来週から来なくて大丈夫です」とのこと。
案の定、正社員が決まったらしく、
その子が入ってくるから体制を整えるんですって。
もちろん、3週間分のお給料はもらえるけど、
……まあ、ちょっと落ち込みました。
でも、「ああ、またか」っていう気持ちもどこかにあって。
東京でできた友達や、昔からの友達と会ったり、
実家に帰ったりしながら、
住んでもいないのに家賃を払い続けていた大阪のアパートへ、
ようやく戻ったのでした。
【インターネットビジネスとの出会い】
仕事を探し始めても、全然どこにも受からない。
それに加えて、時々襲ってくる目眩や、左耳の聞こえにくさがどんどんひどくなっていました。
「もう、外で働くのは無理なのかもしれない……」
「でも、この先どうやって生きていけばいいんだろう?」
そんな不安でいっぱいの中、
ふと気づいたんです。
「インターネットで稼いでいる人がいるらしい」って。
そこから、私の“インターネットビジネス”との出会いが始まりました。
最初はひたすら、ネット検索ばかり。
「ブログを立ち上げる?」
「アフィリエイト??」
「物販??」
聞いたことのない言葉ばかりで、何もかもがわからない。
それでも藁にもすがる思いで、
「2ヶ月間1万円で、なんでも相談に乗りますよ」という人にお金を払ってみました。
でも、いざ質問しようと思ったら……
わからなさすぎて、何を聞いていいかすらわからない。
結局、1回しか聞けなかったのを今でも覚えています。
本当に、初心者って「何がわからないのかすら、わからない」んですよね。
その後、大阪に住んでいた私は、リアルセミナーにも積極的に参加するようになりました。
無料のものから、せいぜい3,000円くらいのものまで。
最初は専門用語ばかりで、まったくついていけませんでした。
でも、何度も足を運ぶうちに、少しずつ言葉がわかるようになってきました。
その中で、ある言葉が引っかかりました。
「ノウハウコレクター」
意味を聞いたら、こう言われました。
「ノウハウばかり集めて、ちっとも行動しない人のことだよ」
つまり、教材ばかり買ったり、塾に入ったりして、
結局結果を出せないまま、次々に新しい方法を探してしまう人たちのこと。
「私は絶対、そんな人にはならない」
そう思っていたはずなのに――
気がついたら、私もその仲間入りをしていました。
セミナーに行けば、ちょっと胡散臭い話もあるけれど、
プレゼンがうまくて、つい申し込みたくなるんです。
そして、気づけば……
- 国内転売塾
- 国内転売コンサル
- アマゾン輸出
- アプリ制作
- ブログアフィリエイト塾
- 高額ビジネス塾
- Twitter塾(当時はTwitter)
- その他、あらゆる教材たち
まさに、インターネットビジネスのデパート状態。
全く利益が出なかったわけではありません。
それぞれ少しずつは稼げた。けれど、それ以上に、
塾代やコンサル費の借金がどんどん溜まっていきました……。
今振り返ってみれば、うつ状態は多少よくなっていたとはいえ、
完全に治ってはいなかった。
体調が崩れる日も多かったし、更年期も始まっていた。
「自分なんてダメな人間だ」
そんな思い込みを抱えたまま、成功なんてするはずがなかったんです。
でも、渦中にいると全然気づかない。
どんなに実力ある人に教えてもらっても、
「自分はダメだ」と思っていたら、
その通りの“ダメな自分”が出来上がってしまう。
特に塾に入ると、他人と比較して落ち込み、
やる気をなくしてしまうタイプの人には、地獄のような環境です。
ビジネス塾に集まる人たちも様々です。
- 私みたいに、メンタルが弱々な人間
- メンタルは強くても、マインドが整っていない人
- メンタルもマインドも整っていて、そこそこ行動できる人
- メンタルもマインドも整っていて、しかもめちゃくちゃ行動できる人
私はというと……
メンタルボロボロ、マインドぐちゃぐちゃ、体調も不安定、
おまけに40代後半。
そんな状態で、やる気と体力に満ちた若い人たちと
張り合えるわけがありません。
結果だけを見ては落ち込み、
「自分なんてやっぱりダメだ」と自己卑下して、
また手が止まってしまう――そんな悪循環の繰り返しでした。
そのうち、メンタルを整えようとすること自体に
時間とエネルギーを取られ、
肝心の作業はちっとも進まない日々が続いていきました。
【突然の父の死、アカウント削除で収入が途絶える】
そんな中――
亡くなる15分前まで元気だった父が、突然この世を去ってしまいました。
父のことが大好きだった私は、現実が受け止めきれず、
深く深く、悲しみに沈みました。
ちょうど同じ時期、アプリの広告から多少なりとも収入を得ていたのですが、
Googleのアカウントが突然削除され、収入がゼロに。
心の支えだった父の死と、経済的な頼みだった収入の喪失。
ダブルのショックで、私は完全に打ちのめされ、
しばらくの間、ただただ放心状態で時間が過ぎていきました。
冷静になれたら、なりふり構わず外に仕事を探しに行ったかもしれません。
でも、あの頃はまだ、突然のめまいや左耳の不調も続いていて、
どうしても「働きに出よう」という気持ちになれなかったのです。
そして、自分を責め続けてしまいました。
「何もできていない自分」を責め、
またベッドから出られない日々が始まってしまいました。
【再びうつ病を発症】
一度うつ病になった人は、再発しやすい――
そんな話は聞いていたけれど、本当に、また私はうつ状態に陥ってしまいました。
しかも、以前よりもずっと症状が重く、
普通に呼吸することすら難しく感じるほどでした。
薬がないと、過呼吸の一歩手前のように呼吸が浅く速くなり、
「生きているだけで、こんなにしんどいんだ」と思い知らされました。
私はずっと、「実家には戻らない」という強い思いで生きてきました。
どんなに苦しくても、一時的に帰省することはあっても、
「住む」という形で実家に戻ることだけは避けてきたんです。
でも――
高齢の母がひとりで心配だったこと、
そして何より、私自身が本当に壊れそうだったこと。
もう「嫌だ」とか言ってる場合じゃありませんでした。
気がつけば、30年以上ぶりに、実家に戻るという決断をしていました。
いや、正確には「決断」というよりも、
もう心も体も限界で、それしか選択肢がなかったのです。
それでも、うつの状態は続いていて、
市役所の手続きのような普段なら難しくないことすら、理解ができず、動けない。
そんな中、友達が区役所まで付き添ってくれて、
荷物の整理や引っ越しの手配まですべてやってくれました。
本当に――
その友達がいなかったら、私はどうなっていたのだろうと思います。
人は、本当にひとりでは生きていけない。
あのときの支えは、今でも心から感謝しています。
【見えない世界や潜在意識にはまる】
実家に戻ってきたとはいえ、すぐに何かできる状態ではありませんでした。
まずはメンタルの回復が最優先。だから、しばらくの間は、ただ休むことしかできませんでした。
でも、少しずつ。
本当に少しずつですが、変化が訪れました。
たとえば、洗面台の周りを軽く掃除するだけ。
それだけのことでも、私にとっては大きな一歩でした。
うつ状態で一人暮らしをしていた時とは違い、
私が動けない時は母が代わりに生活用品を買いに行ってくれたり、
食事を一緒にとる相手がいることで、心に安心感が生まれました。
実家のいらない物を少しずつ処分したり、
一ヶ所だけでも掃除をしたり……
「自分で動けた」という体験が、少しずつ私の自信になっていったのです。
その頃から、私は「潜在意識」や「引き寄せの法則」など、
いわゆる“見えない世界”に本格的にのめり込んでいきました。
もともと存在は知っていたし、興味もありました。
でも、それまでは本をさらっと読んだ程度で、
深く理解していたわけではありませんでした。
今回は違いました。
脳科学、量子力学、心理学……
とにかく「自分をどうにかしたい一心」で、さまざまな分野の本を読み漁りました。
病院にも通い、薬も処方されましたが、
それ以上に、この“学び”が私をじわじわと楽にしてくれたのです。
そして、見えない世界の知識をもっと深めたくて、
とあるコミュニティにも参加。
仲間と一緒に学びながら、自分自身と深く向き合っていく時間が増えていきました。
すると、心がだんだんと前向きになっていきました。
まるで、霧が晴れていくように。
心理学、脳科学、量子力学、宇宙の法則――
あらゆる知識を吸収しながら気づいたことがありました。
それは、
「この10年間、なぜうまくいかなかったのか」
「逆に、20代~30代の頃は、なぜ夢が実現できていたのか」
その答えが、はっきりと腑に落ちてきたのです。
すべての原因は、自分の“内側”にあったんだと。
外の世界をどうこうすることではなく、
まずは“自分の心”を整えること。
そこからすべてが始まる――
そんな大切なことに、ようやく気づけたのでした。
【コンテンツビジネスとの出会い】
心がだいぶ元気になってきた私は、
これまでいろいろな副業に手を出してきた中で、
唯一やってこなかった「コンテンツビジネス」に挑戦してみようと決めました。
とはいえ、コンテンツをどうやって作ればいいのか、
まったく知識も経験もありませんでした。
無料の情報をあさったり、有料の教材を買って勉強したり……
ライティング、マーケティング、商品作成――
とにかく片っ端から教材を買い込みました。
でも、学べば学ぶほど、
「コンテンツってどう作るの?」「どこから始めればいいの?」と、
わからないことだらけで、手が止まってしまっていたんです。
そんな中、たまたま購入した教材の販売者が、
無料相談の機会をくれていたので、思い切って相談してみました。
すると、的確なアドバイスをもらえて、少し前に進めるようになりました。
やっぱり、教材を読むだけではダメ。
実際に商品を作って、売ってみて、はじめて本当の意味で「学び」が深まる。
そのことを、改めて痛感しました。
そこから、自分自身で商品作りを始めました。
アイディアを出しては試行錯誤し、やり直しの連続。
結局、ひとつの商品を作るのに半年もかかってしまいました。
でも――完成したときは、本当に嬉しかった。
そして、初めて出品した商品が売れた瞬間。
めちゃくちゃ嬉しくて、しばらく興奮が止まりませんでした。
最初は100円の商品。
それでも42個ほど売れて、その後1,980円に値上げしてからも売れ続けました。
一番嬉しかったのは、購入してくれた方からのメッセージ。
「この教材、すごくためになりました。教わったことを実践していきます」
その言葉に、心から報われた気がしました。
でも――
「100円の商品に半年もかかっていては、効率が悪すぎる」
「やっぱり一人でやるのは限界があるのかもしれない……」
そう感じていた頃、
**「コンテンツ販売で結果を出している人」**と出会い、
思い切って、その人からコンサルを受けることにしました。
その方からは、効率的なやり方を学び、
それまで半年かかっていた商品作りが、なんと1週間ほどでできるようになったんです。
何よりよかったのは、わからないことをすぐに相談できる環境があったこと。
マニュアルでは理解できなかった操作も、Zoomで一緒に作業しながら教えてもらえて、
とても心強かったです。
ビジネスのことだけでなく、ちょっとしたお小遣い稼ぎの情報も教えてもらえて、
とても実用的でした。
そして、コンテンツを販売できるプラットフォーム「Brain」で、
自分の商品を出品する経験もできました。
この体験は、私にとって大きな自信となりました。
その後は、プラットフォームに依存せず、
自分で販売ページを作って、19,800円のコンテンツを販売。
ポツポツと売れてはいました。
……でも、なんだか心がスッキリしない。
「なんか、私が本当に伝えたいことって、これじゃない気がする」
そんなモヤモヤが、心の奥で静かに広がっていきました。
【コンテンツビジネスの中で、ちょっと方向転換】
ちょうど「なんか違う……」というモヤモヤを感じていた頃、
ある人が新しい企画を立ち上げました。
『非・稼ぐ系の商品を販売できるビジネスを教える』
その人は、私がBrainで教材を買い漁っていた頃に知り合った、
私よりもずっと結果を出している方。
これまでも何本か教材を購入していて、
内容がとてもわかりやすく、信頼している人でした。
以前、Zoomで直接話したこともあり、
普段は迷いがちな私ですが、このときばかりは迷わず参加を決めました。
「非・稼ぐ系」とは、コンテンツ販売の中でも
ビジネスやお金を稼ぐことをテーマにしない分野のこと。
たとえば――
占い、恋愛、スピリチュアル、心理学など、
“自分を整える”ことを軸にしたコンテンツのことです。
私は改めて、自分に問いかけてみました。
「私は本当は、どんなことを伝えたいんだろう?」
そのとき、真っ先に思い出したのが――
数年前に夢中で学んでいたあの世界でした。
引き寄せの法則、量子力学、脳科学、心理学、宇宙の法則、成功哲学……
それらはすべて、「心」や「マインド」を整えるための学びであり、
私がうつ状態から少しずつ立ち直るきっかけをくれた、大切な知識でした。
「やっぱり、私が本当に伝えたいのはこれだ」
そう、ようやくはっきりと気づくことができたんです。
【筋トレと同じように、自己否定癖を止める訓練をする】
見えない世界や引き寄せの法則を学んでから、
「自己否定って、何の得にもならない」と心から理解できるようになりました。
だから今は、
自分を否定せず、責めず、許すことを意識して日々を過ごしています。
……とはいえ、長年の癖はなかなか手強い。
ふとした瞬間に、つい「責めグセ」が出てしまうこともあります。
でも、そんなときには、自分を認めてあげられるような言葉をかけたり、
「自己肯定を促す動画」を見て、意識を切り替えるようにしています。
理論を理解したからといって、何もしなければ元の思考に戻ってしまう。
だからこれは、まさに「心の筋トレ」。
“自分を責めない”“自分を肯定する”という訓練は、一生続けていく”
そう決めています。
【量子力学と心理学のつながりに気づく】
引き寄せやスピリチュアルの世界を学んでいると、
自然と気になってきたのが「量子力学」や「心理学」。
学んでいくうちに気づいたのは――
アプローチや使っている言葉は違えど、
実は言っていることは、ほとんど共通しているということ。
引き寄せの世界、ビジネスで学んだこと、
量子力学、心理学、それぞれが異なる視点から同じ本質に迫っているのだと感じました。
そして、どの分野においても土台になるのはやっぱり、
「自分自身の可能性を信じること」
それが、すべてのスタート地点なんだと、改めて実感しています。
【成功法則と、成功者のマインドを徹底的に学ぶ】
心(魂)が元気になり、「またビジネスをやってみよう」と思えるようになった今、
私は強く感じています。
「成功するには、成功者のマインドを鍛えることが必要だ」
以前ビジネス塾に入っていた頃、講師たちは「マインドが大事」と繰り返していました。
でも当時の私は――
「いいから早くノウハウ教えて!」という態度でした。
今振り返れば、それが結果に繋がらなかった大きな原因。
当時の参加者の多くも、同じように「マインドなんて後でいい」と思っていたように感じます。
だから今は、
**“結果を出している経営者”から、直接「成功マインド」を学ぶ”**という選択をしました。
この成功マインドは、
ビジネスだけでなく、「人として生きていくうえで大切な考え方」がたくさん詰まっています。
私自身、今も人間として日々成長中。
まだまだ道の途中ですが、確実に前よりも「ブレない自分」に近づいてきています。
【なぜ諦めないのか?】
これまで、本当にたくさんのことに挑戦してきました。
それでも、まだ「自分が心から納得できる結果」には、たどり着いていません。
じゃあ、なぜ私は夢を追い続けるのか?
なぜ、途中で諦めずにここまで来られたのか?
その理由は――
**「諦めなければ、夢に近づける」**と、心から信じているからです。
「それって、20代・30代のときに夢を叶えた経験があるからでしょ?」
そう思う人もいるかもしれません。
たしかに、あの頃は夢に向かって突き進んで、実際に叶えたことがあります。
でも、その頃の私は、自分の存在を疑ったことがなく、自己否定もしなかった。
「きっとうまくいく」と自然に信じられる、前向きな思考を持っていました。
けれど、日本に帰国してからは――
すっかりネガティブ思考が染みついてしまい、
気がつけば、自己否定のかたまりのような自分になっていました。
それが15年以上も続いて、
「自己否定」がまるで自分の一部のようになっていたんです。
そんな私でも――
また立ち上がれた。少しずつ復活できている。
この事実が、誰かの力になれたら。
同じように苦しんでいる人の、小さな希望になれたら。
そう心から思っているから、私は進むことをやめないのです。
これまで、ビジネスコンサルを何人も受け、
10個以上のビジネス塾にも入ってきました。
あの頃は全然ピンとこなかった学びも、
今、心とマインドが整った状態で振り返ると、すごく理解できる。
今さらながら「あの経験は無駄じゃなかった」と思えることばかりです。
だからこそ、思うんです。
私の過去のマイナスだった出来事も、すべてに意味があった。
そう心から思える今がある。
私はまだ、夢の途中にいます。
でも、自分がかつて「天然」で夢を叶えていた頃の、
そのときの“思考パターン”を今、自己分析している最中です。
そのデータも活用しながら、
私はまた、新しい夢を叶えると信じています。
だから――
いろんなことを、簡単には諦めたくないんです。
【自分の心がモヤモヤしない商品を作りたい】
非・稼ぐ系の教材を作る企画に参加し、
何度もZoomでミーティングを重ねるうちに、
「私が本当に伝えたいこと」が、はっきりと見えてきました。
私はこれまで、10年近くにわたってビジネス系のコンサルや、
いくつものビジネス塾に参加してきました。
その経験の中で痛感したのは――
心の準備が整っていなければ、どんなノウハウも意味をなさない
という現実です。
どんなに優れたメソッドを学んでも、
心が疲れていたり、自己否定のループに陥っていたら、
行動は続かず、成果にはつながりません。
だから私は、今、
**「心の整え」と「マインドセット」**に特化した商品を作っています。
この商品は、見えない世界――波動やエネルギー、引き寄せといったテーマと、
見える世界――心理学、脳科学、成功マインドなどを組み合わせて、
心を整える“土台”を築くためのものです。
そして、「学んで終わり」にならないように、
ワークや実践的な行動に落とし込めるよう、
私自身が何度も試してきた方法をベースにした独自のメソッドを盛り込んでいます。
正直、まだ制作途中で、毎日試行錯誤の連続です。
でも今は、ワクワクしながらこの商品に取り組んでいます。
自分の心がモヤモヤしないこと。
それが、今の私にとって最大の基準です。
売れるためだけのコンテンツではなく、
誰かの「生きやすさ」や「前向きな一歩」を後押しできるもの。
そんな商品を届けたいと、本気で思っています。
この商品が完成する頃には、
きっと私自身もまたひとつ、大きな成長を遂げているはず。
今、そのプロセスの真っ只中にいます。
【私がコンテンツビジネスをしている本当の理由は?】
今の私は、自分の「軸」や「心」を整え直し、
成功マインドをしっかりと学び直したことで、
普段の生活そのものが、ずいぶんと生きやすくなりました。
だからこそ――
過去の私のように、
- つい自己否定してしまう人
- ビジネスを始めたくても、マインドが整っておらず、いつも途中で諦めてしまう人
- ウジウジ悩んでばかりで、行動に移せない人
- 他人と比べて自分を下に見て、落ち込んでしまう人
……そんな人たちが、少しでも前に進めるように、
一緒に“伴走”しながらサポートしていきたい――
そう強く思うようになりました。
その想いから、現在進行形で“心を整える商品”を、師匠に学びながら作っています。
これは、未来のお客様はもちろん、今の私自身を救うためのプログラムでもあるんです。
そして今、もうひとつの柱として、
「ビジネスそのものを教えていく活動」も同時にスタートしています。
心とマインドを整えたうえで、行動し、形にしていく。
ビジネスを通して、自分の可能性を信じ、誰かの役に立てるようになる。
そんな“自分の人生を自分で創る力”を伝えていきたい。
心の商品と、ビジネスサポートの両方を、今後の活動の柱として育てていきます。
このすべてを支える私の理念は、
『自分の可能性に勝手に限界を作り、諦めてしまう人をなくしたい』
多くの人が、自分の中の“思考グセ”によって、
自分の未来を狭めてしまっています。
本当は可能性があるのに、
自分を責めたり、必要以上に落ち込んだり、
不安や悲観の中で足を止めてしまっている。
あるいは――
「自分なんか……」と、無意識に自分を過小評価したり、
自分を悲劇のヒロインのように見てしまっている人もたくさんいます。
でも、そんな人たちにこそ伝えたいんです。
「今は、つらいよりも楽しい方がいいじゃないですか」
視野を広げ、思考の癖を直していけば、
人生はどんどん“生きやすく”なっていきます。
私は、そんな風に生き方が変わった人たちと一緒に、
人生の後半戦を、もっと楽しく、笑って生きていきたい。
それが、私がコンテンツビジネスをする、本当の理由です。
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